父の話によると、祖父は広海軍工廠(第11海軍航空廠)で技師として働いていたそうです。
当時は、虹村(現在のクリーンセンター周辺)にも滑走路があり、広も爆撃の標的となっていま
した。父自身も幼い頃、米軍の戦闘機による機銃掃射に遭い、必死で溝に身を潜めて逃げたと話
していました。そんな父も、今から4年前に亡くなりました。
呉に限らず、当時は日本全国が戦争に巻き込まれ、多くの人が負傷し、大切な命が失われまし
た。戦後80年を迎える今年、あの時代を知る人は少なくなり、記憶もだんだんと遠のいてきてい
ます。
一方で、世界に目を向ければ、ロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルとパレスチナの衝
突が今なお続いています。日本もまた、隣国からの軍事的な挑発がエスカレートしつつあり、どこ
か不穏な空気が漂い始めています。
平和な世界を強く願う一方で、もし再び武力衝突が起これば、その被害は80年前とは比べもの
にならないほど甚大になることは想像に難くありません。何の罪もない人々の命が、為政者の判
断ひとつで簡単に奪われてしまう――そんな悲しい現実を、二度と見たくはありません。
私たちが今ここに生きているのは、多くの人々の努力と犠牲のうえに成り立っているという事実
を忘れず、感謝の気持ちを胸に、不戦への歩みをこれからも続けていきたいと思います。M.K